会長のマンスリーメッセージ

会長マンスリー
2020.01

令和の時代、自ら考え判断する自律した看護職になりましょう

 元号が移り初めての新年を迎えましたが、今年、日本看護連盟は60年と1歳を迎えます。

 還暦を迎えた連盟はどのようにして生まれてきたものなのか? 連盟のハンドブックに記されている河村郁氏とはどのような人物なのか? 詳細を知りたいと思い、べっしょちえこ氏の「河村郁 悲しみの阿修羅」(看護の科学社、1984年)をひもときました。べっしょ氏が2年にわたり取材してまとめた本です。

 1959(昭和34)年7月、様々な困難を乗り越えて「看護政治連盟設立準備委員会」が発足しました。委員長の河村郁氏は、連盟のあり方を次のように考えていました。

『確かに今後問題の解決を図る上で、立法行政両面にわたる運動が必要だから国政に代表を送るという目的もあったが、一方で看護師の社会教育、政治教育をしようという大きな目的もあった。ともすれば、専門の内部だけに固まりがちな看護婦だが、これからは民主国家としての成員として、社会的な目、政治的な目を養わなければならない。その役割を連盟に果たしてもらおうという願いがあった』(前掲書175ページ)

 河村郁氏は、現在の原宿の一等地に建つ日本看護協会会館の土地を手に入れた人物でもあります。戦後、日赤中央病院養心療の一室から始まった日本看護協会は、東京女子医大の裏手、牛込原町にある1千坪の土地に、木造モルタル二階建て160坪の会館を建てましたが、火事で焼け落ちてしまいます。

 焼け跡の土地を売ることを市川房江氏に相談したところ「日本でだだ1つの、組織的な婦人団体をつぶすわけにはいかないやね」と知り合いを紹介してもらいました。3000円で購入した1千坪の土地を10倍近い値段で売却する一方、現在会館が立つ土地を、相場の半額で手に入れることができました。

 焼けた会館には、機関誌「看護」の発行を5年間委託していたメヂカルフレンド社も入居していました。故小倉一春社長が、清水嘉与子顧問の参議院議員時代、長年にわたり後援会長を務めてくださった理由がここにあったのだと知りました。

 湯槙ます日本看護協会長時代に、看護協会総会で意思決定され看護連盟が発足しました。設立準備委員会の委員長だった郁氏は、看護職には珍しい経済性と政治力を兼ね備えた人だったようです。大変有能であったにもかかわらず、トップの座に就くことなく一生を終えているのは何故か? 戦争を挟んだ青春時代のツキのなさが最後まで災いしていたようです。

 しかし、べっしょ氏の本から、郁氏はバランスの取れた市民感覚を持った人であることは、はっきりしています。明治生まれの知的な女性らしい大らかな合理性を身につけ、社会的な視野をもった人でした。

 話し出したら止まらない口八丁手八丁、料理上手で、またお金集めも上手い人でした。債券発行やチャリティ等を催すアイディアマンで実践家の郁氏の手腕で会館の建設費が賄われます。現在の看護協会会館の確固たる存在感は、この人の行政畑の経験と看護職への将来への期待から生まれたのだと納得しました。

 先人たちの歩みに敬意を払いつつも、十二支の始めの年でもあり「新しい酒には、新しい革袋が必要」の如く、令和の時代を新たな革袋に替える作業が必要でしょう。

 今年は、看護の日が制定され、ふれあい看護体験が始まり30年、ナイチンゲール生誕200年と、様々な記念の年になります。そして、政局の争点は、憲法改正です。郁氏が創立時に思い描いた民主国家としての成員として、社会的な目、政治的な目を養わなければならないということに立ち戻り、自ら考え判断する自律した看護職になってまいりましょう。

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